懐かしリーズ vol.120
突然信州に現れたピカピカの115系1000番代。
1977年暮れ、それまで旧型国電80系が運用されていた松本運転所のローカルに投入された
地方には異例の?新車。
1978年、私にとってのエポックイヤーであった。
・・幼少の頃、祖母に「鉄」を仕込まれ?( よく高崎第一機関区にSL見学に連れて行かれた )たのに始まるのであるが・・。
両親が共働きであった私は、幼少の頃よりよく安中の父親の実家に保育所代わりに預けられたりしていた。
その家に行くと信越線が良く見え、記憶にはない気動車「はくたか」や、多少は記憶にある181系電車「あさま」、ビュッフェが営業している「妙高」「信州」、スカ色旧型国電のローカル電車や客車「白山」など、今考えれば「垂涎の」名列車を連日眺めていたはずである。
・・で、あるが、年齢も4~6才、どれも同じ「きしゃ」に見えていたのは致し方なく、今で言う「トイデジカメ」のようなものがあれば、何かしらの写真が残せたのではと思うが、
今となってはどうにもならない。(写真そのものが”高級品”であったし・・・。)
小学校前半は鉄分が希薄になった時期もあったが、高学年になると一人で電車に乗ることを覚え、
今で言う「乗り鉄」は実践するようになったいた。
「鉄」には”カメラ”がつき物であるが、当時は「ヤシカエレクトロ35」の最廉価版コンパクトカメラしか持ち合わせておらず、
たまに父親の一眼レフ「アサヒペンタックスSPF」を持ち出すのが”贅沢”となっていた。
「乗り鉄」と言っても、撮る写真は旅行先の風景や同行の友人をスナップしたものばかりで、まともな鉄道写真など皆無な状態、
「電車に乗って遠くへ行く」ことそのものが楽しみであったのだが、なんとなく「オトナの男の道具」として当時友人の間で「一眼レフカメラ」が流行りつつあり、鮮烈なキャッチコピー”連写一眼”を謳って、のちに一眼レフ史上最高人気を得た『キヤノンAE-1』が気になってはいた。
そこで・・センセーショナルな事件があった。
~この辺のことは 『 車窓を印象付けるBGM 』
https://asamaginrei.seesaa.net/article/a20196462.html ほかで書いています。
そのころよく「乗り鉄」信州行に利用していた80系電車で運転の高崎を朝7時に出る長野行各停。
(「乗り鉄」は圧倒的に信越線が多かった。・・幼少の安中通いが影響しているのカモ)
この列車がある冬の日、突如として当時最新鋭の115系1000番台で運転されていた!。
しかもこの時が 「 乗った 」 のでなく、タッチの差で 「 乗り遅れた 」 状況・・。
クハ86(たまにクハ85もあった)であるはずの後尾車が、やたらとツルツルの・・高崎では初お目見えの
クモハ115が去ってゆく様を高崎駅5番線で呆然と見ていた。
当時は鉄道雑誌など、見る習慣もオカネもなく、何の予備知識もない突然の出来事・・
乗り遅れたことより、『 115系 』 であったことのショックが遥かに大きく、
・・・どうして高崎線の車両が信越線に?・・とクモハ115が小さくなっていくシーンが強烈に記憶に残っている。
これが、1977年暮れのことである。
このとき、そのショックも覚めやらぬまま、後続の169系急行で屋代、長野電鉄に入り湯田中まで行った。
そのころの旅スタイルは、小型のカセットテレコにAMラジオのベストテン番組を録音したテープを入れて持参、
イヤホンで聴きつつ車窓を眺めるというものだった。
信州の車窓はは雪景色が続き、その風景と共に印象に残るのはキャンディーズ 『 わな 』、原田真二 『 キャンディ 』 『 タイムトラベル 』 『 シャドー・ボクサー 』 、平尾正晃&畑中葉子『 カナダからの手紙 』 などで、( 多少時系列的に前後があるかも )
特にキャンディーズ 『 わな 』 は、当時普通の、のほほんキャンディーズ・ミキちゃんファンであった事を抜きにしても”楽曲的に”自分にとってストライク!であった。
時まさに 「 解散宣言 」 である種のブームを巻き起こしていたキャンディーズであったが、この曲でアルバムまで購入してみる気になったのは確かである。
・・・・・・・
人気絶頂、( キャンディーズ並み? ) ”連写一眼”のキャッチコピーにやられ、キヤノンAE-1導入。
・・このブログ写真の多くはこのカメラで撮影した。
78年には後継のA-1も登場しているが、コレが使いやすかった。( 買い足すオカネもなく・・ )
話を「鉄」に戻すと、80系電車が去ったことで ~失ってはじめて気づく物のありがたみ~ を人生初めて実感したのはこのときであり、
なんとなく「客車ぽい」・「急行型ぽい」・「吊掛けの重厚なサウンド」・・・が気に入っていた電車が消えてしまったことに大変なショックを覚えた。
また同時に、キチンと記録していなかった事を後悔し、以後まともに「撮り鉄」もするきっかけとなった。
自宅からは高崎線が見え、当時は家も少なく、広がる桑畑を隔てて12両編成の特急・急行の編成全体が見渡せた。
カメラも趣味としており、ある写真コンテストで「最年少入選」を果たし、そのお祝いにと両親にヒットの頂点にあった「AE-1」を買ってもらっており、 それを手にある時は自宅の窓から、また近くの踏切から、少しづつ撮影をはじめた。
春にはキャンディーズが解散、 その後高崎線を走る列車も 『 とき 』 『 はくたか 』 『 白山 』 から食堂車が消え、新潟・長野の急行編成からもビュッフェ車が外され・・周りの色々な物事が一気に寂しくなった。
特に『白山』は妙高の土石流災害による運休のドサクサに食堂車まで消えてしまったと言う有様。 115系1000番代は新前橋・長岡にも配備され、両毛線や吾妻線で活躍したスカ色の旧型車と上越線の新潟色の旧型車を置き換えてしまった。 ここでも消えてしまってからの本気モードになってしまうが、
10月のダイヤ改正 ( 53-10 ) 以降に 「 鉄 」 ピッチが上がった。
「 消え行く車両 」 「 消え行く路線 」 に群がる鉄心理を覚えたのはこの時である。
まあ、ここで撮り始めたために次のエポックとなる1982年(57-6・11 東北・上越新幹線開業)までの在来線の賑わう様子はそこそこ残せた。
「 ブログ 」 を始めるにあたって久々に聴いたキャンディーズもヤフオクでアルバムを物色するほどになった・・!?
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